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◆ブラジリアン柔術誕生の歴史◆
≪なんでブラジルに『柔術』という日本語があるのか・・・・?≫
柔道を普及させるために世界中を流浪していたコンデ・コマこと、
前田光世がブラジルに辿り着いたのは1914年のことでした。
前田光世はガスタオン・グレイシーという移民管理家と親しくなりました。
ガスタオン・グレイシーは1801年、スコットランドからブラジルに移住した
ジョルジュ・グレイシーの孫である。
ガスタオンは、やんちゃだった長男のカーロスに手を焼いていたので、
前田に「柔術で少し鍛えて礼儀を教えてやってくれないか?」と依頼しました。
しかし、現在でも決してお行儀が良いとは言えないグレイシー一族を
考えるとガスタオンはやんちゃな息子たちに『茶道』か『花道』を教える
べきだったのは・・・・・(苦笑い)
※なぜ前田が『柔道』ではなく『柔術』と呼んだのか?
その理由は不明。
僕の想像ですがその当時前田は講道館を破門になっていたので
『柔道』ではなく『柔術』と呼んでいたのではないのか・・・・
また当時のブラジルは治安も悪い状況だったので、
たぶんに『護身術』という意味合いもあったのではないでしょうか。
≪グレイシー柔術からブラジリアン柔術へ≫
その後、前田はカーロスだけでなく、ガスタオンの5人の息子全員に
柔術を指導するようになる。
その中で、最も技術を伸ばしたのが
末っ子のエリオ(ヒクソンやホイスのお父さん)だった。
エリオは、身体が弱った分、『力を使わずに相手を制する術』に熱中した。
そして前田から伝授された技をさらに『バーリトゥード(Vale−Tudo)』向けに
磨きをかけていった。
その後、エリオ・グレイシーもまた、前田と同じように自分の流派
(グレイシー柔術)を広めるため、17歳からバーリトゥード戦を行った。
参考までに、いくつかエリオ・グレイシーの戦績を紹介します。
1932年 VS フレッド・エバート(アメリカ・レスリング五輪金メダリスト)
試合結果:110分/引分け/警察に止められる!!!
1937年 VS アーウィン・クラウスナー(ブラジル・ボクシング)
試合結果:試合時間不明/一本勝ち/決め手不明
1950年 VS カベリ(ブラジル・カポエラ)
試合結果:4分/一本勝ち/決め手不明
1955年 VS ヴァヴデマー・サンターナ(ブラジル・柔術)
試合結果:3時間40分/TKO負け
つまりブラジリアン柔術(Brazilian Jiu-Jitsu)とは、
柔道家、前田光世(コンデ・コマ)がグレイシー家に伝授した技術が
その子孫へ受け継がれやがてブラジル全土に広まったものである。
前田光世とガスタオン・グレイシーの出会いはブラジリアン柔術にとって
まさにアダムとイブの出会いみたいなものかな!
≪日本人柔道家VSグレイシー柔術≫
1951年9月6日に加藤幸夫がリオデジャネイロでエリオ・グレイシーと対戦。
試合は10分3ラウンドのブラジリアン柔術ルールで行われ引き分けに終わる。
その後、9月23日に二人は再戦し6分で加藤が絞め落とされエリオの
一本勝ちに終わった。
10月23日には木村政彦とエリオ・グレイシーが対戦。
木村が2R開始3分(10分3R)で腕を取り(腕絡み/別名キムラロック)
を極めた時にエリオはすでに意識がなくなっていたため兄のカーロスが
ストップを申し出し木村のTKO勝利に終わった。
≪前田光世ってどんな人?なんでブラジルに行ったのか?≫
時代は日露戦争中の1904年に遡ります。
当時、講道館柔道は国内の古流柔術との試合で勝利し続け
その武道としての優位性を証明していた。
当然、日本を制したら次は世界です。
柔道普及のためセオドア・ルーズベルト大統領の招きに応じて1905年に
渡米したのが、講道館四天王の一人、富田常次郎と若き日の
前田光世(当時四段)だった。
陸軍士官学校の猛者たちを相手に、前田は連戦連勝した。
(この時の試合形式は不明)
だが最後の大統領御前試合で調子にのった富田(この時すでにに40歳過ぎ)
がアメリカ人フットボーラーの挑戦を受け、コロッと負けてしまったのである。
この後、「日本柔道最強を世界中に示すまでは、日本へは帰れぬ!」と
前田が思ったのかどうかは不明だが、これが「異種格闘技の旅」の
はじまりだった。
米国で柔道を普及させるためと滞在費を稼ぐために異種格闘技戦を行った。
前田は米国ではブッチャー・ボーイという巨漢選手とリング上で闘ったり、
メキシコ人のボクサーとベアナックル方式(グローブ無し)で闘ったり、
開拓地では中国拳法の使い手と闘ったりもした。
前田は対戦相手がいなくなると、自分に懸賞金を賭け対戦相手を募集?した。
この柔道を普及する前田のスタイルが日本に伝わり講道館を破門されるが、
気にもせず前田は米国を後にして渡欧する。
全欧中で異種格闘技戦を繰り広げた前田は、もちろん連戦連勝していた。
前田は、米国から欧州へ渡りスペインで「伯爵」を名乗り、
リングネームをコンデ・コマ(コマ伯爵)として異種格闘技戦を戦った。
なぜ、コンデ・コマというリングネームにしたのか?
理由は『前田光世』の名が有名になりすぎて相手が逃げてしまい異種格闘技戦が行なえなくなったからです。
そこでリングネーム(偽名)を使うようになりました。
そして1914年、前田が36歳の時にブラジルへ渡り、
ガスタオン・グレイシーと出会うのです。
前田は1941年、日本人居留地で他界した。享年63歳。
前田の死後、講道館より七段が贈呈されました。
≪1993年 グレイシー柔術の世界進出≫
しかし、ブラジリアン柔術が世界中でメジャーになるには長い年月が
費やされました。
1993年、米国で開催されたUFC−1(第一回アルティメット大会)で
グレイシー柔術のホイス・グレイシーがトーナメントを圧勝で制するのは
前田がブラジルへ渡ってから実に79年後のことです。
詳細は格闘技@歴史アーカイブスの
≪1990年代:衝撃!そして総合格闘技へ≫をご覧下さい。
◆『ブラジリアン柔術』ってどんな格闘技なの?◆
『寝技主体の着衣格闘技』で打撃は行いません。
技の多くが柔道と共通しているので相互の応用が容易なため、
現在、多くの柔道家の関心を集め研究されています。
≪ブラジリアン柔術の試合形式≫
絞め技、または関節技を極めた場合は、一本勝ち
試合時間内に勝敗がつかない場合はポイント制による判定となります。
各ポイントについて
テイクダウン(2点) − (立ち技)立っている相手を倒し、寝技に持ち込むこと。
リバーサル(2点) − (寝技)下の選手が上の選手をひっくり返し、
自分が上になること。
ニー・イン・ザ・ベリ(2点) − (寝技)相手のへそに自分の膝を当てた
体勢になること。
パスガード(3点) − (寝技)ガードポジションを脱すること。
マウント(4点) − (寝技)マウントポジション(馬乗り)の体勢になること。
バックマウント(4点) − (寝技)バックマウントポジション
(後ろからの馬乗り)の体勢になること。
試合時間について
白帯:5分
青帯:6分
紫帯:7分
茶帯:8分
黒帯:10分
帯制度について
帯の色は日本の柔道や空手のように実力によって分けられており、
白帯、青帯、紫帯、茶帯そして黒帯の順に高くなっていきます。
基本的には試合や大会での実績や実力に応じて道場主が授与する場合が
多かったが、最近では黒帯の乱発を防ぐために試験制度を導入しています。
ブラジリアン柔術の流派について
グレイシー柔術
マチャド柔術
ノヴァ・ウニオン柔術
◆ブラジリアン柔術のセールスポイント◆
『バーリトゥードのカリスマ』ヒクソン・グレイシーやPRIDEで活躍している
A・ホドリゴ・ノゲイラ等々、総合格闘技界で絶対的な強さを誇るのが
ブラジリアン柔術の格闘家です。
他の格闘技にない柔術のセールスポイントは、ホイス・グレイシーや
グレイシー一族の言う「柔術は力の無い人、弱い人のためにあるもの」と
いうことです。
道着で相手をコントロールをするので力や体格差があっても相手を制すことが
可能だからです。
まさに老若男女が楽しむことのできる格闘技ですね!
僕も柔道で寝技の練習をしますが、柔術の練習も身体を使ったテコや重力の
実験をしているようできっと楽しいはずですよ!
また、道着を着て大量に汗をかくのでダイエットにも向いているかも・・・・
柔術は道着がカッコ良いのも魅力です。
カッコイイ柔術衣もイロイロありますね〜
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